症状について
長州人エリートを父方に、紀州の名家を母方にもつ「お嬢さま」で、幼い頃から病弱であり、学校は休みがちで、家で蔵書を乱読した。『孝経』の素読を受け、漢籍の素養があったことはあまり知られていない。理知的で頭の回転が速く、ものおじしない一方、喜怒哀楽と感情の起伏が激しかった。このような直情径行型の性格は、デビュー当時は「老人キラー」として肯定的に受け入れられていたが、中年期以降高名なベストセラー作家として丁重に扱われるようになると逆にマイナスに働き、ときに周囲との摩擦や衝突を引き起こした。また小説家として早くから成功したこと、その作風が文壇主流に認められなかったことから、心中には常にベストセラーを世に送ることで実績を誇示しつづけなければならないプレッシャーがあったと考えられる。長く不眠症に苦しみ、長編を書き終わるごとに体力を消耗して入院し、特に中年期以降の健康状態は心身ともに安定していなかった。死の2ヶ月前に起こった「『笑っていいとも!』テレビジャック事件」は話題となったが、橋本治(有吉の紹介で翌週の月曜出演)[4]、池田満寿夫[5]、筒井康隆[6]はいずれも「痛々しくて見ていられなかった」と評しており、訃報を伝えたマスコミは揃ってこの事件を彼女の「奇行」として大きく採り上げた。 なお、テレビにはデビュー当初、NHKで放映された『私だけが知っている』にレギュラー出演していたことがあるが、それ以降は執筆活動を優先して極力出演を避けていた。「笑っていいとも!」に出演した理由の一つは「テレフォンショッキングに出ていないと娘(有吉玉青)にバカにされるから」だった[4]。 藪内流茶道をたしなみ、「青庵」の茶名をもっていた。資産運用 を好み、外国訪問時には華やかな和装でしばしば周囲の注目を集めた。しかしこうした日本文化への造詣は主として大学在学中に歌舞伎界への出入りを始めてからわずかの間に身につけたものである。 『三婆』『恍惚の人』をはじめ、「老い」をとりあげた作品が多いが、自らの「老化」を語るとき「以前は一度辞書を引けばすぐ覚えられた英単語を忘れるようになった」ことを挙げている。その聡明さがしのばれる。 なお、有吉の投資信託 と人物を考える上で不可欠なのは母親秋津の存在である。代表作となった『紀ノ川』は秋津(文緒)と佐和子(華子)自身との関係を含む母方の家系をモデルとした小説であるが、執筆のきっかけとなったのはマスコミの寵児であった佐和子に秋津が言った「あなたが何を書いたというのか」のひとことであり、これをくりっく365 してすぐにアメリカへ留学したのも、マスコミから脱出して自分を見つめなおすためであった。また実生活でも、佐和子の離婚後から生まれたばかりの孫の養育のために同居した秋津は、その後佐和子の死まで実質的な秘書役を務め、作品の批評から資料の整理、常用薬の管理までを引き受けるなど、公私にわたってその生活に大きな影響力をもっていた。[7]「四畳半襖の下張裁判」に触発され、「ポルノグラフィーを書く」と宣言して連載を始めた『油屋おこん』が実質的な中断に終わった理由のひとつは、主人公の年齢が娘と同年であったこととならんで、秋津の反対があったからだといわれている。 交友関係 著名作家として交友関係は広かった。特に劇作家・演出家として水谷八重子 (初代)、山田五十鈴、草笛光子、宮城まり子、司葉子など演劇界・芸能界とは深い交流があった。また青年期の石原慎太郎は同世代作家(芥川賞候補(その後受賞)となったのが有吉より1期前)として有吉に親愛感を抱いており、有吉の死去に際して「若い頃一緒にナイトクラブに行ったとき口説こうと思ったが彼女がニンニクを食べた後だったので辟易してあきらめた」と書いている[5]。秦野章はマージャン友達で、有吉は彼の著書[8]の帯に「彼は知恵の壺から出てきた男だ。かつて一度も間違ったことはない」という推薦文を寄せた。外国為替証拠金取引 は市川房枝の若者応援団のリーダーとして『複合汚染』冒頭に登場しているが、有吉は菅が自分を市川の代わりとして勝手に候補者にかつぎあげようとも考えていたと聞いてゾッとし、「ハンサムだけど嫌われなければならない」と思いつめてことさらにガミガミ怒鳴りつけたと記している。阿川弘之とは古くから親交があり、二人を一巻にまとめて収録している文学全集が複数あるが、阿川自身は有吉の生前からエッセイでかなり手厳しい人物評を書いており、娘阿川佐和子の名を有吉からとったという風評をくりかえし否定している。 国外で関係の深かった中国では老舎や夏衍、謝冰心など作家の他、政府要人、特に廖承志と親しく、また唐家?は1965年の有吉滞在時に通訳を務め、『有吉佐和子の中国レポート』では「唐少年」と呼ばれている。老舎の妻と娘は『人民日報』に有吉の追悼文を寄稿している[9]。 中国と創価学会 従来、中国が対日工作のFX として使ったのは日本共産党であったが、日中共産党の関係悪化に伴い、日本での足場を全く失った。中国が注目したのが創価学会であった。ちなみに当時日中は国交がなかった。創価学会との関係を構築するスパイ(工作員)として中国に起用されたのが有吉であった。 2000年10月、当時の創価学会会長秋谷栄之助が創価学会第2東京・北海道・九州合同総会で以下のように語った。 1965年6月、池田大作と有吉が会談。池田が中国に関心を示していることを確認。 その後、有吉は秋谷(当時学会青年部長)に電話で、FX と会うよう薦めた。 同年7月、秋谷は中国代表(孫平化・東京連絡処首席代表(=事実上の駐日大使)と劉徳有(のちの国家文化部副部長))と会談。有吉も同席。 創価学会と中国が初めて接触した瞬間である。(袁翔鳴『蠢く!中国「対日特務工作」マル秘ファイル』小学館 ISBN 978-4093897075) 有吉により築いた創価学会との関係が、公明党訪中(1971年7月ほか)→田中角栄首相訪中→日中国交樹立へとつながった。国交樹立後に有吉は『有吉佐和子の中国レポート』を出版した。 有吉の政治スタンスはかなり微妙で、夫・神彰は“赤い呼び屋”といわれたように、ソ連に近いと考えられた(だからボリショイ・サーカスの興行ができた)。有吉自身は1974年の参議院選挙で市川房枝の応援を行った。それに基づく記述が主著『複合汚染』の冒頭に見られる(上記の通り当時市川の選挙スタッフだった菅直人が登場している)。 泡坂 妻夫(あわさか つまお、1933年5月9日 - )は日本の推理作家。東京都出身。東京都立九段高等学校卒。筆名の"泡"の旁は正しくは"己"ではなく"巳"。本名は厚川 昌男(あつかわ まさお)。筆名は本名のアナグラムである。 経歴 東京・神田で「松葉屋」の屋号を持つ紋章上絵師の家に生まれ、約5年の会社勤めを経て家業を継ぐかたわら、1975年に短篇「DL2号機事件」で作家デビューした。 その逆説の作風から「日本のチェスタトン」と呼ばれた。また、『しあわせの書』や『生者と死者』など、技巧を凝らした作品がある。 作中で活躍する探偵役としては、亜愛一郎、曾我佳城、ヨギガンジー等。 安西 篤子(あんざい あつこ、1927年8月11日 - )は、日本の小説家。神戸市生まれ。神奈川県立横浜第一高等女学校(現・神奈川県立横浜平沼高等学校)卒。 幼少時をドイツ、中国で過ごす。中山義秀に師事して小説を書き始め、『張少子の話』で直木賞。1993年には『黒鳥』で女流文学賞を受賞した。 安藤 英男(あんどう ひでお、1927年 - 1992年)は日本の作家、文学博士。東京都港区に生まれる。 法政大学経済学部卒業後、現在の三井住友銀行に入行。その後、国士舘大学の教授になり、執筆活動を開始する。時代小説作家としての活動だけではなく、文学博士でもあり、多数の歴史関係の著書を執筆している。 五十嵐 貴久(いがらし たかひさ、1961年 - )は東京都出身の小説家である。成蹊大学文学部卒業。 概要 デビュー作は2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞で大賞を受賞。その後は様々なタイプの小説を発表しており『1985年の奇跡』や『2005年のロケットボーイズ』では主に高校生の青春を、『交渉人』や『TVJ』では現代を舞台にした事件を描いたサスペンスを、『安政五年の大脱走』、『相棒』では時代物を描くなど同じ作家でありながら大きくタイプの違う作品の小説を書き上げている。 作品に映像化されるものが多い。『リカ』(2003年3月1日にテレビ朝日土曜ワイド劇場で浅野ゆう子、阿部寛主演)や『パパとムスメの7日間』(TBSで日曜劇場枠で3ヶ月放送)、『2005年のロケットボーイズ』(タイトルを「ロケットボーイズ」と変更した上で、2006年1月より深夜帯だがテレビ東京で3ヶ月にわたり放送)など。 また2004年に新潮社から出した『交渉人』は同年8月17日に衛星放送WOWOWの『ドラマW』枠で主演三上博史、鶴田真由、監督は三池崇史で映像化された。同作品はテレビ朝日土曜ワイド劇場で2005年3月26日に再び映像化されている。衛星放送と地上波放送とで二度映像化されている作品はかなり稀なものと言っていいと思われる。 また、『1985年の奇跡』が、双葉社の発行する週刊マンガ雑誌『漫画アクション』で半年間にわたって連載された。これは本人もインタビュー、あるいは取材などで語っているように、映画などにインスパイアされた形で小説を書くことが多いためとも言われる。 自分の作品について感想を述べているブログ、サイトの掲示板などに「五十嵐貴久」という名前で返事が書かれている事があるのだが、本人という確証は無い。